Friday, June 08, 2012

勧酒から感じること

勧酒

君勧金屈卮
滿酌不須辭
花發多風雨
人生足別離

(于武陵)


これ素晴らしい詩ですよね。 
というのも、まず、情景がまざまざと僕の脳裏に浮かぶんですよ。
たった20文字で、これほどイメージを強く惹き起こさせる文字列に出会ったことがありましたかね?良く憶えてるわけじゃないんですけど。
音楽といい、言葉といい、やはり僕は「あるイメージを強烈に惹起させる」ものに魅かれるんでしょうかね。
そのへん と 思い出、とか記憶、とか呼ばれてるもの の関連を考えてみるのも面白そうなことですね。
いま思いついた考えをここにさらっと書いてみますけど、例えば、情景を思い起こさせる「もの」には2種類あって、①その「もの」が自分の体験と密接にかかわってるせいで、「もの」に触れるだけで当時の記憶をおもいだせるような「もの」と②その「もの」があまりに見事に作られてたり、自分の記憶や記憶から感じる思いとひどく合致してるような「もの」、みたいな、とすると「勧酒」は僕にとっては②ですね.

で、次に、その状況が大変な極限状況である、というところですね.
よく(僕を受け持っていた)学校の先生たちは、「昔はインターネットなんてなかったから、『卒業=死別』のような状況も少なくなかった」というようなことを言っていたように思うんですが、まさにそれですね。
「別れ」に関する極限的な状況というか(あまりこの用法で「極限」を濫発したくないんですが如何せん語彙がない。離別までの時間 t について t→0 みたいな)、言ってしまえば「死別」のようなものですが、別離が事前に確定的に認知されているか、とか、離別後相手の状況にどんな思いを馳せるか、というような違いがあるように思うのです。
前者については、「勧酒」の場合は、おそらく別れの前夜なんかに酒を飲んでるんでしょうが(そして次の日に見送ったり見送らなかったりするのでしょうが)、死別の場合はそうもいきません。いつ死ぬかなんて大体においてわからないからです。別れを前にした見送る側の、その微妙な心情の機微を、この20字から感じ取れずにはおれぬのです。
さて後者については、まず死別の場合は、死んだ人については、もう死んでるわけですから、その内容がどうであれ、「彼/彼女の現在を案じる」ような考えは生まれにくい(極楽云々を除いて(その考えは割と世間に一般的ではあるが))。一方「勧酒」の場合では、その視点がA(対するはB)のものだとすると、別れた後もAは(おそらく)Bの身を案じることになるでしょう。その雰囲気がまたじわじわと出てきてる(ような気がする)んですよね。

ご存知の方も多かろう(むしろこっちの方が知られているのかもしれない)が、「勧酒」に対して昭和の名作家たる井伏鱒二が素晴らしい訳をつけてますね。


この盃を受けてくれ
どうぞなみなみつがせておくれ
花に嵐のたとえもあるぞ
さよならだけが人生だ


一気に戦時中の香漂う文体っぽくなりますね。これはこれでまた素晴らしい。
で、彼は、さらにこう付け加えます。


さよならだけが人生ならば
また来る春は何だろう


これですね。僕の解釈は、この2行こそが、先ほど言及した「別れた後」の雰囲気そのもののような気がするのです。この辺については自由に感じて頂くべきだと思ってますが。

最後に、文学作品なんかでは特に(もちろん読書全般に言えることだとは思いますが)、それが自分の記憶であれ著者の記憶であれ、追体験して体感することで、深くその世界に入り込めるんじゃないかと考えてるこのおよそ半年です(この考えを(あまりないんですが)人に話すときに、僕は「実感を伴って読む」というような言い方をしてました。今回改めてこうして文章にしたためてみると、また新鮮な感じがして面白いです)。ここまで読んでくださってありがとうございました。


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