Sunday, July 15, 2012

uh

こんばんは。

書こうと思ってみても、書いては消し、書いては消しの繰り返しに陥っていた10日間でした。 文章 についてさえも(それも自分が書くものについて)僕は 理想 を追いかけているようです。もう少し肩の力を抜いて

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肩の力を抜くにもいろいろある。ひとつ目は ひとまず自分の肩の荷を降ろしてみる くらいの意味で、もう一方は 肩の荷は降ろすことなく、それへの当たりかたを再考してみる というような(風に思っている、もちろん「現時点で」)。
「それがあるのが当たり前になってしまったような肩の荷」を降ろす、というのは、なかなか怖くてできないものだ(ここではとりあえず「肩の荷」という表現を使用しているが、僕自身はこの「肩の荷」が苦痛であると思ったことはあまりない)。

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ここでは 講義 を例として取り上げる。今期の講義のうちおおくについて、「ぱっと聴きではわかりにくいけどよく聴いたら繋がってる感じがする」組み合わせが結構な数ある。そういうことを考えるようになってから、世の中のことも同じような構造をしてるんじゃないかなどと考えることがある。はては僕が良く考えるような「参加」とか「優しさ」(僕が勝手に定義して使ってる言葉で、でもそんなに厳密な定義を与えてるわけではないので,近いうちにその定義をアップデートしなければなるまいと考えている。詳しい内容についてはおそらく過去の記事で触れているので興味があれば探して参照されたい、あるいは僕としゃべるか)なんかもそれによって説明がつくのではないかなどと考えるときもないではない。
そういうことを僕に考えさせるようにした主役(?)ともいえる(と考える)講義が一つ存在するのだが、その講義はほかの講義と比べても射程が広く(というよりも 「射程が広いというのはまさにこういうことであるなあ」と思った という言い方の方がより事実に即しているかもしれない)、そういう文脈で 階層的な構造 を見いだせるかもしれない、などと考えてもいる。

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とにかく、なんというか、「繋がっている」感じがするのである。あるいは「夕陽を美しいと感じること」に通用するかもしれないような、なんらかの繋がりを感じてならない。もちろん僕の歴史の中で触れてきたものによってそういう感じかたが形成されていく面もあるのだろうが。先日、以下のようなことを考えた。少々校正してある。

「「繋がり」を在らしめるのは、思想信条体制などなどへの「参加」そのものなのではないか(?)「参加」の渦中にある個人には、ぼんやりとではあるが「神」が見える(?)では僕がこうして感じている所の「繋げるもの」はなぜ在りそうに思われるのか?僕は無意識下で何かに参加している?」

「多少なりとも「ものが見える」ようになり(思い違いかもしれないが)、そのために「何も見えない」ことに気づき、それでも手探りで「ここ」とか「そこ」とか「いろんなとこ」同士の繋がりを感じるようになり、でも何も見えないのに/から、「そうやって様々なものを繋げているもの」の存在を信じてしまうくらいには蒙昧である」

果たして「そんなもの」が在るのだろうか。「もっとも理にかなった方法」を存在させるようなものが。まさに、「完全な図書館」と形容するにふさわしいような。

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とりあえずここまでにしておく

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