ある枠の下で、かつあまり考え込まずにしゃべり続けていると、いつの間にか自分の知らないところまで掘り進んできていた、ということはとくに珍しくもないことで、もちろんそうしたときには掘り進んできた手はすごく痛くてしかもまわりは真っ暗なので自分が来た道を追うのも一大作業であるのだが、それほど消耗しても/することを知っていても、こういうことはしてみるとよい。
なにか(知らないもの、できないこと、要は未だ手の届いていないもの)を追うということは、その目的がなんであれ、その姿勢自体は尊重されるのがよいと考える。これと同じ構造で、 真理 あるいはさまざまに呼ばれるものは、目的やたどり着くところそのものとしてそれを考えるのは妥当であるとしても、そこに向かわせる方法論そのものにも それ は存しうるのでは、というような考えをもっとあたためようと思った。
ものごとの構造とか、何かを何かに落とし込んで話すこととか、そういうことの髄を、(意味は遠い昔に知りはしたものの)腑に落ちるような、光が射すような感じで納得したのはここ半年以内の最近のことである。人生の愉悦は、物事の原理原則をとらえ、うまくはまるたとえ話によって巧みに自らを伝えようとするところにもあるのかもしれない。
ようやく(?)20世紀中葉に追いついたのかという感じがしないでもない。
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