就寝時間の遅さを自覚するようになって久しいし、今日は何も書かずに早く寝ようと思っていたのだが、なかなかどうして、書かずには落ち着いていられないというか、書けば即落ち着くというわけでは決してないのだが、かといって書かなければそれはそれでもったいないなあと思うのである。
ある人によって書かれたものは、実に、その人が関わったものの内で特にその人を説明しうるものであるのは確からしいなあ。僕は 僕が喋ったり書いたりしたもののみによって理解される僕の像を僕自身が想像することは僕を気持ち悪くさせることだ ということを感じていたが、この数日は、それがまた楽しいことでもあるのだという発見をして、心が少し晴れやかである(ということに、実は、この記事を書いていて気付いたのだが)。かと言って、積極的にそれをして行こうというわけではないのだが、ともかく、斟酌の一手段としての地位を得たようだ。
さて、僕は今何を考えているのだろう。今思い浮かべていたのは、ある小学校の裏門あたりのこと。僕が通っていた公立中学校には、その地区の2つの小学校の児童が入学するようになっていて、そのうち僕が通っていなかった方の小学校について思うでもなく思っていたというわけだ。幼かったころ慣れ親しんだ土地(そのうちの多くは今に至るまで慣れ親しんだものでもあるのだが)は、なにか特別な力を持っていると思うほかない。記憶というものは、おそらく死ぬまで付き合っていくものなのだし、いずれは考察を深めたいもののひとつである。
浮かんで浮かんで浮かんでは言葉に落とし込まれずに消えていくものを、僕以外の人に見せたいとまでは言わないにしても、せめて僕には、鮮度を保ったままのそれを後から参照できるような機構が欲しい。言葉でその代替をしようというのがほかでもない今僕が書いてる(そしていまあなたが読んでいる)この文の主たる目的であるのだが、どうにもやはり物足りないなあとも思う(とはいえ僕がこの営みをやめるつもりでもなければ、そこに価値を見出していないのでもない。むしろ、これは、かつてない歓迎をもって僕のなかに取り込まれつつある)。急になにかに目覚めるようなことに期待するのも現実味がないので、暫くは、言葉に落とし込む際にこぼれていったものを眺められるようになるべく、それらしいことを(気分次第で)やりつづけたい。
どうもこういう宣言風の締めになってしまうのだが,それは僕がこういうことを真に重大な問題であると認識していることの裏返しととらえることにしよう.
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